新春と
立春と
1つ目の満月と
いろいろな
ものやタイミングに
意味を込め
意義を乗せ
価値をつける
信じるものは
救われる
なんて言うが
良し悪しの話し
でも無く
良し悪し自体
意味と意義と価値の
物差しでしかない
いろいろな意味で
虚像を認識できる
のは
人類の最も大きな能力
であるから
その
良し悪しを思い込める
能力は
上位概念としてのオーバーロード
を共有するという
恩恵を受けるだろう
この国の
近代史から考えると
いや、
仏教が
入って来たくらいからもだが
信仰と言う構造を
政治に使ってきた
多くの民族の1つ
であり
高度経済成長の最中
いろいろな出来事と共に
それらの価値観は歪められ
信仰
と言う行為に対して
良いイメージを持つ人は
多くはは無いだろう
そんな現状も
ある種の
虚像状態でしかなく
つまるところ
全て
と言って良いくらい
この世界は
信仰
と言う状態で保たれている
と同時に
その数多の信仰という
思考状態の
相互関係を
如何に、多様に重ねられるか
そこに
真理や真実
みたいなもの
があるのだろう
つまり
信仰のレイヤー構造の
濃い部分が
それにあたる
みたいな
ことを考えると
宇宙と言われる
物質空間の
相対性理論的な力
も
そんな理解で
だいたい間違いは無いだろう
新春も立春も満月も
様々な変化の中の
ただの通過点でしかない
が
関係性の多様構造に
何かが見えて来る
のでは